網にかかった一体の観音様
浅草寺といえば、言わずと知れた浅草のシンボルであり、雷門から本堂へ続く仲見世通りを中心に多くの観光客を集める有名スポットです。徳川幕府の祈願所と定められ、江戸庶民の信仰を集めたことから江戸文化のイメージが強い浅草寺ですが、その起こりは、およそ1400年前の628(推古天皇36)年と伝えられています。
当時、宮戸川(現隅田川)で漁をしている檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)という兄弟がいました。ある朝、二人がいつものように川に網を打つと、網の中から一体の仏像が出てきました。恐れ多いと思った二人は、その仏像を川に返します。ところが不思議なことに、仏像は何度網を打っても同じように入ってきます。仕方ないので二人は仏像を持ち帰り、地域で物知りだった土地の長、土師真中知(はじのまなかとも)に見てもらうことにしました。そこで、その仏像は「聖観世音菩薩」であり、「お名前を称えて一心にお願い事をしなさい。そうすれば必ず功徳を授けてくれる神様だ」と教えられます。それから二人は近くの子どもたちがつくった草のお堂に観音様をお祀りし、毎日祈念しました。その後、真中知が剃髪して僧になり自宅を寺とし、草のお堂から観音様を移してお祀りしました。それが浅草寺の起源と伝えられています。
ちなみに、浅草寺の隣に位置する浅草神社は、真中知の子の夢に観世音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知、浜成、竹成の三人を神として祀ったことが始まりと言われています。
1000年を超えて守られる絶対秘仏
浅草寺のご本尊である聖観世音菩薩は、決して公開されることのない「絶対秘仏」として知られています。1000年以上にわたり誰もその姿をみたことはなく、大きさを「一寸八分」(約5cm)と伝える書もありますが、これは江戸時代以来の俗説に過ぎません。絶対秘仏となったルーツは、勝海上人という僧が観音様のお告げを聞いたことにあると言われています。勝海上人は、645(大化元)年に浅草寺の観音堂を立派な建物へとつくり直しました。その後のある夜、観音様が上人の夢枕に立ち「みだりに拝するなかれ」と告げたのです。以降ご本尊は秘仏とされ、今日まで堅く受け継がれてきました。
「聖観世音菩薩」は、「世間の生きとし生けるものの音声を観じ、その苦しみを除かれ、また願いを聞いて安楽を与えてくださる」仏様で、その神変化自在のお働きから「観自在菩薩」とも称されます。中国唐代の善導大使が著した『般舟讃』の分でも「円満な徳と誓願により、誰でも、どこから来ても分け隔てなく、その人に対面して手を差しのべてくださる」という、おおらかな慈悲の働きが示されています。
歴代の住職も尊容拝見を慎む神秘的な観音様。そのちょっとした歴史を知ることで、お参りするときの気持ちも変わってくるのではないでしょうか。