唯一無二の電気・ポップカルチャーの街、秋葉原今昔物語

世界有数の電気街、オタク文化、ポップカルチャーの聖地として名を轟かせる秋葉原。現在の姿が形づくられるまでにどのような歴史があったのか。世界の秋葉原の今昔をたどります。

街の名前は、火災鎮護の神社に由来する

「秋葉原」という街の名称は、秋葉神社に由来します。秋葉神社は、1869(明治2)年の大火を受け、東京市民の火災鎮護の祈願所として1870(明治3)年に鎮火社(ひしずめしゃ)という名で現在のJR秋葉原駅構内に当たる地に建立されました。

大火の後、そのすぐ北には300m×100m程度の広さの火除地(ひよけち)がつくられました。後に鎮火社の名称が秋葉神社に改められると、この地は「秋葉原(あきはばら)」あるいは「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼ばれるようになりました。1890(明治23)年にこの地に新設された貨物駅が「秋葉原駅」と命名されたことで、(あきはばら)という読み方が定着していったそうです。

戦後の復興とともに電気の街へ

秋葉原が世界有数の電気街に発展した礎には、ラジオ・部品の卸売商社である廣瀬商会(現在の廣瀬無線電機株式会社)が1933(昭和8)年に出店し急成長を遂げたことがあります。NHKの試験放送が開始された1925(大正14)年に設立された同社は、「NHKとともに生まれた廣瀬」を標榜(ひょうぼう)していたそうです。

しかし1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、街の発展はいったん陰りを見せることになります。工場や電気材料は軍事に利用されるようになり、大衆の経済活動は停滞し、1945(昭和20)年の東京大空襲により、秋葉原は焼け野原になりました。

壊滅状態となった秋葉原ですが、戦後は急速な復興を見せます。多くの店舗が営業を再開したほか新店も加わり、中央通りや万世橋付近に電気街が形成されていきました。そこでは総合問屋である廣瀬商会の四方に広がるネットワークが大きな力となり、地方から仕入れに来る業者が多く集まったため、その後も出店が続き、秋葉原は大いに賑わいました。当時の多くは屋外で商品を並べる露店が中心でした。1949(昭和24)年にGHQによる露店撤廃令が発令されると、露店商たちは屋根付きの代替地を要求し、そこに充てられたのが秋葉原駅のガード下でした。中央通りとガード下に広がる電気街の原型は、こうしてつくられたのです。

世界に名を轟かせるポップカルチャーの聖地へ

1970年代中頃になるとコンピュータを扱う店舗が増え始め、パソコン部品のジャンク品やバルク品を扱うジャンクショップのイメージが家電のイメージとともに浸透していきました。このような背景の中、日本メーカーの技術力の向上もあって、日本の家電製品は世界的な人気となります。日本の家電製品を買いに来る外国人が増え、「Made in Japan」とともに「Akihabara」の知名度も世界に広がります。マイカーの普及に伴い多くの人が郊外の大型店へ車で家電を買いに行くようになると、秋葉原は家電よりもパソコンの色が濃くなり、やがてマルチメディアの先端の街として認知されるようになります。

1990年代後半には、パソコン関連製品とともにアニメやゲーム、フィギアを扱う店舗も増えていきました。これはパソコンの部品を購入するために秋葉原に通っていたオタクと呼ばれる人々をターゲットにしたビジネスがもたらしたもので、この動きはメイド喫茶などの登場にもつながっていきます。こうした変化がやがて一大ムーブメントとなり、オタク文化の大衆化とともに、ポップカルチャーの聖地としてみなされるようになったのです。

新型コロナウイルス感染拡大のダメージを受けた秋葉原ですが、コンテンツ産業を中心にした唯一無二の存在感は健在です。万世橋付近での再開発計画が進むなど、現在も変容を続ける秋葉原。街がどのような新しい顔を見せてくれるのか、これからも目が離せません。